看護の先駆者

佐賀リュウ氏

1903年(明治38年)2月20日~2001年(平成13年)5月29日 秋田県鹿角市大湯出身
1948年(昭和23年)秋田赤十字病院初代看護監督
1968年(昭和43年)退職
1973年(昭和48年)第24回フローレンス・ナイチンゲール記章受章

志田 ちゑ氏

1913年(大正2年)10月1日~2009年(平成21年)1月3日 山形県東田川郡余目町出身
1968年(昭和43年)秋田赤十字病院初代看護部長
1979年(昭和54年)退職
1983年(昭和58年)第29回フローレンス・ナイチンゲール記章受章

志田 蝶 氏

1922年(大正11年)1月5日  山形県東田川郡余目町出身
1964年(昭和39年)秋田赤十字高等看護学院教務部長
1985年(昭和60年)退職
2007年(平成19年)第41回フローレンス・ナイチンゲール記章受章

 佐賀リュウ氏は、戦後GHQのアメリカ人看護師から基礎看護の実技指導を受けた秋田県唯一人の看護師である。講習終了後赤十字病院看護婦養成所の専任教員であった志田ちゑ氏の強力な協力のもと、二人で県内各地を巡回し基礎看護法の伝達講習を行った。

 戦後の物資不足の時代で、病院のカーテンで大シーツを作り、関東大震災時にアメリカから送られた羽根枕を利用して枕にする等必要資材は全て手作りで、米・みそ持参の手弁当での活動であった。

 志田蝶氏も戦後GHQの医療改革による付添い廃止や患者ケア、寝具、食事の基準化に率先して取り組み秋田県内の普及、教育に努めた。

 昭和21年日本産婆看護婦保健婦協会設立、翌年昭和22年に秋田県支部が設立され、初代会長に佐賀リュウ氏が就任し6年間務めた。志田蝶氏も日本看護協会秋田県支部長と保健婦・助産婦・看護婦の三婦協議会会長に就任し、組織づくりに貢献した。

 志田蝶氏は秋田赤十字高等看護学院教務部長として教育に心血を注ぎ、秋田の看護婦養成委託も受け入れ、県内の看護教育の向上に寄与するとともに、県の看護師不足の解消に貢献した。

 秋田県看護協会誕生と戦後の秋田県の看護の発展は、佐賀リュウ氏・志田ちゑ氏、志田蝶氏らの看護にかける情熱と強い使命感によって推進された。三人の看護の先駆者による秋田県の看護の質の向上に貢献した業績は高く評価されている。